ラジオ番組「永六輔その新世界」(TBSラジオ・関東地方のみの放送)で、「『給食費を払っているから、子どもにいただきますと言わせないで、と学校に申し入れた母親がいた』という手紙が番組に届いた」と、番組パーソナリティーの永六輔さんが紹介したところ、リスナーから大きな反響があったそうです。

考:「いただきます」って言ってますか? 「給食や外食では不要」ラジオで大論争〔『毎日新聞』東京朝刊 2006/1/21〕
 リスナーからの反響の大半は、申し入れには否定的だったということです。一方で、「いただきます」で手を合わせる動作は宗教的行為なのではないかという声や、「食堂で『いただきます』と言ったら、隣に座っていた客に『お金を払っているのだから、店がお客に感謝すべきだ』と怪訝な顔をされた」という体験談も寄せられたそうです。

 「お金を払っているからいただきますと言わせるな・むしろ客である自分に感謝すべき」という考え方には、どうしても共感できません。こんな考え方の人物が、店や交通機関・役所や企業等の窓口などの公共の場で「客だから何をしてもいい」とばかりに横柄・傲慢・乱暴な態度をとって、対応している職員や居合わせた周囲の人を不快な気分にさせるのではないか、とすら思います。

 学校給食に関しては、食を通じた教育の一環ということを考慮しても、やはり「サービス提供者である学校側が、客としての児童・生徒に感謝すべき」という考え方では、不十分なのではないかという疑念を持ちます。
 学校側が「給食を出してやっている」という強気の態度に出ろという意味ではありません。「食材となる動植物の生命、また食材の生産者・食材の販売や運搬に携わる人・調理員などの多くの人たちの手があって、給食ができている」ということを子どもに理解させるということが、教育上重要なのではないかと思います。

 手を合わせることが宗教的動作につながるのではないかという疑念に関しては、手を合わせる動作や「いただきます」のあいさつに宗教的意味合いがあるというわけではなく、「ご飯が食べられるのは、食材となる動植物の生命や、多くの人のおかげ」という自然・人間・社会への感謝を示す行動というような気もします。

 実際に「いただきます」と声に出したり手を合わせたりするかは別としても、「自然・人間・社会の存在があるからこそ、自分もご飯を食べられる」ということだけは忘れないようにしたいし、学校での給食指導にもその観点から当たってほしいと願います。
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