学校における生徒指導で、「ゼロ・トレランス」の手法が日本でも広まりつつある。「寛容度ゼロ」などといわれ、問題行動を類型化・マニュアル化した上に類型化されたパターンに当てはめて機械的・画一的・排除的な指導をおこなうという手法。

 「ゼロ・トレランス」はアメリカ合衆国で生み出された手法である。しかし発祥の地・アメリカでは潮の流れが変わっているとのこと。『しんぶん赤旗』2017年11月21日付に、教育研究者の鈴木大裕氏が、近年の米国における「ゼロ・トレランス」の動向について、『「ゼロトレ」発祥の地 アメリカ 「逆効果」と批判 潮の流れ変わる』とする解説文を寄せている。

米国における「ゼロ・トレランス」


鈴木氏は米国における「ゼロ・トレランス」の背景について、以下のように指摘している。
  • 1980年代のレーガン政権下の薬物撲滅運動と、その対策としての「割れ窓」理論に源流がある。
  • 1994年にクリントン大統領が、学校への銃器持ち込みの取り締まりに適用して以来、対象範囲を広げた。
  • 2002年の米国連邦政府による「落ちこぼれ防止法」が構築した学力標準テストでの教育の徹底管理体制で、拍車がかかった。


 この結果、停学処分を受けた生徒は、幼稚園から高校まで年間300万人以上にものぼると推計されるという。明らかな違法行為での処分はごく一部にすぎず、ほとんどは教員への暴言、喧嘩、遅刻、制服の乱れなどの逸脱行為が理由だという。

 また「落ちこぼれ防止法」施行後に停学率・退学率が急上昇したとして、背景には「標準テストの点数を上げることが教員にとって重圧になっている。そのことで、点数の低い生徒の排除へのゆがんだ動機付けとなっている」という指摘がある。また公設民営学校がビジネスとして「早く安く効率的に」標準テストの成績を上げることに躍起になっていることも、この傾向に拍車をかけていると指摘されている。

 一方で米国でも「ゼロ・トレランス」の傾向に疑問・異論が高まり、問題を抱える生徒の「排除」から「支援」へと潮目が変わりつつあるという。アメリカ心理学会は2008年の「ゼロ・トレランス」の報告書で「停学・退学は生徒の素行に逆効果」と指摘したり、オバマ政権は2009年に停学・退学処分には慎重になるよう促す見解を出した。

 これらの米国での流れを紹介した上で鈴木氏は、「生徒指導こそ教師の専門性が生かされる領域」「現場の教師ならではの、それぞれの状況に応じた教育者の判断があるはず」「ゼロトレランスでのマニュアル化や、警察へのアウトソーシングは、教師が自分の専門性を手放すことになる」と指摘し、報告をまとめている。

日本の学校教育における状況


 報告で指摘されている内容は米国だけでなく、日本の学校教育にも当てはまることではないか。

 生徒管理的な方針と新自由主義的な方針が結びつき、生徒を「商品」・学校を「サービス業」と一面的に扱い、「テストの点数=学力のすべてと一面化した概念」「素行」など表面的な体裁を整えようとすることで、個としての生徒は管理の対象となる。

 日本でも旧来的な管理教育は長年にわたって学校現場にはびこっていたが、それに「ゼロ・トレランス」概念が加わり、これまでの管理教育体制をさらに強める形になっているともいえる。

 典型的なのが、維新政治のもとでのここ10年来の大阪市や大阪府。

 大阪市では「ゼロ・トレランス」的な発想による「学校安心ルール」の策定を強行し、学校現場や保護者からは批判が起き、大阪市会でも市議が厳しく批判する議会質問もおこなっている。

 「学校安心ルール」では、問題行動を類型化し、個別の生徒の問題行動とされる物はその類型にあわせて、校外施設送りも含めた指導をおこなうことにされている。しかし教師にとって気に入らない児童・生徒に難癖をつけて排除する手段や、他の児童生徒・保護者が自分にとって気に入らない別の児童・生徒を貶めて排除するための密告手段としても使われる危険性があるなど、危険が指摘されている。

 大阪市では学校選択制の導入や全国学力テストの学校別成績公表などともセットとなっているという意味でも、ある意味では米国の構造と酷似していることになる。

 大阪府でも、中学生対象の「チャレンジテスト」で調査書の評定(いわゆる内申点)が左右されたり、府立高校では「3年連続定員割れは廃校検討」という教育条例など、維新府政のもとでおこなわれた措置により、学校現場にも悪影響を及ぼしている。

 府立懐風館高校での、生まれつき茶色がかった髪を黒く染めるよう繰り返し迫られ不登校状態にされたなどとして生徒が訴えている問題は、「ゼロ・トレランス」的発想が極限まで行き着いた結果のひとつだともいえる。

 「ゼロ・トレランス」的な生徒指導は、大阪だけではなく全国的に広がっていると聞く。しかしこのような指導は非人道的である。

 「ゼロ・トレランス」の発想だと、極端な例だと、例えば「いじめを受けていたことに対して抵抗した生徒に対し、学校側はその抵抗した行為だけを表面的に見て切り取って暴力行為扱いして排除した」ということもありうることになる。しかし、これではいじめへの加勢と同等で、人道的にとんでもないことになってしまう。

 問題行動とされるものでも、単純に問題として切り捨てられるようなものではなく、個別の状況やそこに至るまでの流れを総合的に検討していく必要がある。

 一人一人の生徒の個別の状況を判断し、個別の事象をていねいに検討しながら、より適切な方向性を考えていくのが、生徒指導であり、学校現場に求められる力量ではないか。「ゼロ・トレランス」は、そういった生徒指導の根本とは相容れないものとなっている。

 「ゼロ・トレランス」やそれに類する発想での指導は、学校現場からは早期になくしていく必要がある。
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